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ヒデミツの商い

第3章

カテゴリ:ヒデミツの商い

【東大をめざして高校進学】
  1986年4月、ヒデミツは日本大学附属習志野高校に入学しました。東大を目指す開成や慶応を希望しましたが、いずれも健康診断書の提出が求められ、持病である「インスリン依存型糖尿病」のヒデミツは、書類審査の上ではずされてしまうのです。このため健康診断書の提出の無い、日大習志野高校を選んだのです。外部進学率が断トツトップの附属校という、目標を持つヒデミツには最高の環境が整いました。片道2時間もかけて、進学する姿を見た両親は学校に近い東京都葛飾区新小岩に住まいを移すなど、熱心にヒデミツの後方支援をしてくれました。

【ディスコに熱中】
  両親の期待を一身に受け、高校入学と同時に駿台予備校に通って、1年生から東大をめざす勉強に励んでいきました。しかし、この予備校で知り合った友人についていった渋谷のディスコこそ、ヒデミツにとっては大きな転機となってしまったのです。初めて踏み込んだ大音響と点滅の照明のディスコは、刺激的でした。好みの女の子と気軽に話すこととができるディスコは、本当にヒデミツにとっては天国でした。3〜4人の友人たちとグループを作り、終電車までディスコで踊ったり、ナンパした女の子と話し込む暮らしになってしまいました。

  小中学校の時に学習塾の塾生斡旋で得たお金も底をついてきたため、今度はディスコの店員としてアルバイトをするようになりました。「青春のスベテはディスコ」と親からこずかいをもらって遊ぶのではなく、あくまでも自らが汗を流して、自由な遊びをしていたのです。両親も「早く帰って来い」とは注意をするものの、高校生となったヒデミツを信頼して、口うるさく力でねじふせるものではなかったので、ヒデミツはますます女の子との遊びに熱中していきました。ディスコ遊びに熱中するあまり、成績はどんどん落ちていきました。1学年430人中、400番位 です。ヒデミツの下には10人位しかいないため、常に自らの位置がよく見える成績でした。

【日大進学のカラクリで学んだもの】
  高校3年生の1学期が終わる頃、「このままでは日大にもはいれないぞ」と担任の先生に言われ、「はっ」としたのです。秋の日大附属の統一テストに向けて、ガムシャラに勉強を開始しました。 習志野高校は、日大の附属高の中でも偏差値は断トツのトップでしたので、成績は附属高全体での評価ですから悪くても5段階のうち4しかつかないのです。統一テストさえクリアすれば、日本大学の希望学部に入学できるのです。

  このため、習志野高校で数学を教える非常勤の先生に頼んで、友人と2人の特別 補習をお願いしたのです。統一テストさえ頑張れば、いままで遊んで来たことが帳消しになって日大に入学できるからです。1日6〜7時間の猛勉強が始まりました。家庭教師の先生とは、ディスコやビリヤードに行くなど友達のような関係だったので親身になってくれました。ヒデミツの家や友人の家に泊まり込んで出来の悪い生徒を励ましてくれたのです。11月の試験前には土日も無く、毎日午前1時過ぎまで勉強しました。先生も1週間に1回位 しか家に帰るぐらい、寝食を共にして頑張りました。この結果、友人は日大法学部に推薦入学が決定しました。

  しかしヒデミツは好成績ですが、日大経済学部にはあと2点不足のため不合格。やむなく一般 入試を受験しましたが不合格。やっぱりディスコで遊んでいたことがいけなかったと反省し、浪人を覚悟していましたが卒業間近の3月中旬に担任の先生から日大経済学部に「補欠合格」連絡があり、なんとか日本大学に進学が決まったのです。日本大学附属校生は、内申書の評定とともに、日大統一テストでの標準化点(偏差値のようなもの)で各学部への推薦が決まる仕組みでした。当時全国で附属生は約1万2000人。募集枠は学部、短大、2部を合計しても約4000人程度であり単純に3人に1人しか推薦されません。

  このため、一発勝負でも日大統一テスト対策を万全なものにすれば日大に進学できたのです。ヒデミツもこの仕組みがあったからこそ、数ヶ月の特訓で2年間の遊びを克服。なんとか好成績を残すことができたのです。だからこそ、このような日大附属生のために、統一テストを乗り切る家庭教師センターの設立を思い立ったのです。