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ヒデミツの商い

第4章

カテゴリ:ヒデミツの商い

【がむしゃらに300万円を稼ぐ】
 1989年、日本大学経済学部に入学したヒデミツは、1年生となった6月 から、5ヶ月間家にも帰らず新潟県の苗場プリンスホテルで住みこみのアル バイトに精をだしました当時の時給は1500円。 雪かきには特別手当、午後8時以降は深夜手当がつくため午前6時から午後 11時半までハードな仕事をこなしました。5ヶ月間で休みは3日だけ。 皿洗い、配膳、ゲレンデの整備、人のいやがる仕事もすすんでやりました。 なんでも屋という異名を取るほど、アルバイトに情熱を賭けたのです。住み 込みのため食費もかからず朝から夜遅くまで働きずめのため、お金を使うこ とはありませんでした。ひたすら自らの目標に向かって頑張りました。 附属高校生の為に家庭教師センターをつくろうと働いた汗の結晶300万円 をヒデミツは自らの労働で手に入れたのです。

【日統一ゼミナールを設立】
 300万円を元手にヒデミツは、大学2年生となった1990年4月、附属 生の為の日大進学専門家庭教師センター「日統一ゼミナール」を立ち上げま した。自らが附属生として「統一テスト」を受験した経験から、その対策に は基礎強化が重要でありマンツーマンが最適な学習法と考えたのです。 そして統一テストに詳しい講師陣を揃え、日大進学の専門塾としてスタート させました。 また内申書には定期試験で評価が決まることから中間、期末試験の前の特訓 コースを設けるなど自らの体験をビジネスに生かしていきました。さらには 「業界初、FAX通信指導コース」を作り今までの学習塾とは想像もつかな いサービスも開始。今日のインターネット役所の原点でもあったのです。

【すぐに学習塾は行き詰まる】
  しかし、ヒデミツのビジネスは思ったほど、やさしいものではありませんで した。塾生募集のためのパンフレット製作費、講師陣の選定、カリキュラム の作成などなど、次から次へと経費は増えていき、あっという間に元手は失 くなってしまったのです。自ら始めた事業だけに両親に支援を求めるわけに はいかず、クラブのボーイのアルバイトで運営資金を捻出するようになりま した。この頃はバブルの絶頂期でもあり、「こんなにたくさんのお金を使う 経営者になりたい」と思いながら灰皿を取り換えたり、ドリンクを配んでい たのです。 ヒデミツはどんな仕事にも「こうすれば効率的だ」「こんなやり方がある」 などいつでもバーチャルな問いかけをしながら仕事に向かっていきました。 小学生の時、父から教えられたテレビに向かっての語りかけが現実の社会で 役立っていたのです。クラブでのボーイのアルバイトとともに自ら学習塾講 師として日統一ゼミナールの補填のために働き出しました。

【ビジネスの師、紀岡代表と出会う】
  当時、大田区内だけでも講師200人をかかえる「一橋ゼミナール」の塾講 師となって塾経営の基本を学んでいきました。この一橋ゼミナールの代表、 紀岡直樹氏こそ、ヒデミツのビジネスの師であり目標の人でした。クラブで 出会う経営者よりも、実際の現場でリーダーシップを発揮する代表を身近に 触れることで、ビジネスへの意欲はさらに高まっていったのです。「こんな 経営者になりたい」「こんな会社運営をしたい」いつでも、どこでもヒデミ ツは前向きな考えです。一橋ゼミナールでの塾経営のノウハウを学んだから こそ、自らが代表の日統一ゼミナールをなんとか運営していくことができた のです。

  1992年4月1日、商法改正で株式会社の出資金が50万円から1000 万円に引き上げられることになりました。このためヒデミツは3月末、日統 一ゼミナールの運営を主体とした株式会社情報通信ネットワークを設立しま した。