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ヒデミツのこだわり

第1章

【ひとりっ子誕生】
 1970年(昭和45年)9月30日、父は親族が経営するガソリンスタンドに勤務する佐野光雄、母は教員である恒子の長男としてヒデミツは東京都大田区で生まれました。O型てんびん座です。2400g という小さなカラダでしたが、母方のおばあちゃんに一人っ子として大事に育てられました。父は、会社に、母は教員として学校に行ってしまうため、ヒデミツはおばあちゃん子でした。

 3歳の時、英語塾に行きたいと両親に頼みましたが「まだ早いわ」と断られてしまいました。しかし、ヒデミツはあきらめることなくおばあちゃんと一緒に英語塾を訪問。入学金、学費をすべて、おばあちゃんに出させることに成功。入塾を果たすことが出来ました。これはヒデミツのおぼえている初めての出来事であり、今日の原点のような気がします。西蒲田保育園、幼稚園に通 う頃は、家のそばの駐車場で自転車に乗って遊んでいました。乗り物が大好きな活発な子供でしたが、夢は宇宙の果てを探す博士になりたかったようです。卒園文集で将来の職業の欄には「こっかいぎいん」と書くなど、ひと味違うヒデミツ少年です。まわりには、政治家は一人もいなくても志は幼稚園の頃から高かったのです。  

【父の教育方針】
  大田区立相生小学校に入学すると、父はヒデミツに次のような3つの課題を与えました。ひとつ目は、わからないままにも新聞を切り抜き、その感想文を書くことです。B5版のノートの左に新聞の切り抜きを貼り、右の部分にその記事の感想文を書きました。小さな頃は、記事よりも写 真が大きなものを選んで書いていた様です。

  ふたつ目は、テレビに向かってアナウンサーに話し掛けることです。父のひざの上でテレビを黙ってみるのではなく、アナウンサーにどんどん勝手に質問をしていくのです。「このネクタイは気に入らない」「○○とはどんなことか詳しく説明を」「本当にそうなのか」などなど。大人とのバーチャルな対話を求められていたのです。

  みっつ目は、テレビはニュースしか見られないことです。両親からは「勉強しなさい」などと強要されたことは一切ありませんでしたが、普通 の子供達の見るマンガや娯楽番組をみた記憶はヒデミツにはありません。こうして、父からは知らず知らずに勉強への自立心を植え付けられていったのです。しかし、小学校3年生の時、突然ヒデミツは半年間休学となりました。いったいヒデミツの身に何が起こったのでしょうか・・・。

第2章

【難病が発症】
 1979年夏、次の休み時間が待ち遠しいほど水が欲しいと「喉が乾く」、階段を上り下りするにも「体がだるい」といった症状を両親に訴えました。ヒデミツの訴えに驚き、すぐに近くの東邦医大病院に駆け付けました。この時下された診断は「即入院」という信じられない結果 でした。病名は「インスリン依存型糖尿病」です。体の中からインスリンを生み出す機能がまったく働かない、日本では4000人に1人という特異なものです。入院は約5ヶ月も続き、学校に通 えない毎日でした。

  病院では、特別の手当をするわけではなく、食事制限の栄養指導や血糖値を自分で測ること、インスリンの注射を自分で打つことの指導が行われました。また、週2回は学校の担任の先生が病院にやってきて勉強を教えてもらったり、縄跳び、階段で歩くことなど運動をすることへの習慣付けの訓練で、学校の授業には遅れをとることはありませんでした。

【逆境をバネに】
 退院の時一番ショックを受けたことは、毎日4回も注射をうち、血糖値を測ることを申し渡されたことです。入院中だけのことと思っていたことが、これから一生続けなければならないことが悲しかったのです。しかしヒデミツは「悲しい」などと否定的になることではなく、ハンデを乗り越えるためにひたすら勉強することで悲しさを吹き飛ばそうと頑張りました。帽子やランドセルには黄色のカバーがつけられたり、体操着は普通 の子と識別されるものでした。けれども、このハンデは勉強することで乗り越えられるとガムシャラに机に向かうことで成績はほぼオール5。クラス、学年トップを維持しました。

第3章

【東大をめざして高校進学】
  1986年4月、ヒデミツは日本大学附属習志野高校に入学しました。東大を目指す開成や慶応を希望しましたが、いずれも健康診断書の提出が求められ、持病である「インスリン依存型糖尿病」のヒデミツは、書類審査の上ではずされてしまうのです。このため健康診断書の提出の無い、日大習志野高校を選んだのです。外部進学率が断トツトップの附属校という、目標を持つヒデミツには最高の環境が整いました。片道2時間もかけて、進学する姿を見た両親は学校に近い東京都葛飾区新小岩に住まいを移すなど、熱心にヒデミツの後方支援をしてくれました。

【ディスコに熱中】
  両親の期待を一身に受け、高校入学と同時に駿台予備校に通って、1年生から東大をめざす勉強に励んでいきました。しかし、この予備校で知り合った友人についていった渋谷のディスコこそ、ヒデミツにとっては大きな転機となってしまったのです。初めて踏み込んだ大音響と点滅の照明のディスコは、刺激的でした。好みの女の子と気軽に話すこととができるディスコは、本当にヒデミツにとっては天国でした。3〜4人の友人たちとグループを作り、終電車までディスコで踊ったり、ナンパした女の子と話し込む暮らしになってしまいました。

  小中学校の時に学習塾の塾生斡旋で得たお金も底をついてきたため、今度はディスコの店員としてアルバイトをするようになりました。「青春のスベテはディスコ」と親からこずかいをもらって遊ぶのではなく、あくまでも自らが汗を流して、自由な遊びをしていたのです。両親も「早く帰って来い」とは注意をするものの、高校生となったヒデミツを信頼して、口うるさく力でねじふせるものではなかったので、ヒデミツはますます女の子との遊びに熱中していきました。ディスコ遊びに熱中するあまり、成績はどんどん落ちていきました。1学年430人中、400番位 です。ヒデミツの下には10人位しかいないため、常に自らの位置がよく見える成績でした。

【日大進学のカラクリで学んだもの】
  高校3年生の1学期が終わる頃、「このままでは日大にもはいれないぞ」と担任の先生に言われ、「はっ」としたのです。秋の日大附属の統一テストに向けて、ガムシャラに勉強を開始しました。 習志野高校は、日大の附属高の中でも偏差値は断トツのトップでしたので、成績は附属高全体での評価ですから悪くても5段階のうち4しかつかないのです。統一テストさえクリアすれば、日本大学の希望学部に入学できるのです。

  このため、習志野高校で数学を教える非常勤の先生に頼んで、友人と2人の特別 補習をお願いしたのです。統一テストさえ頑張れば、いままで遊んで来たことが帳消しになって日大に入学できるからです。1日6〜7時間の猛勉強が始まりました。家庭教師の先生とは、ディスコやビリヤードに行くなど友達のような関係だったので親身になってくれました。ヒデミツの家や友人の家に泊まり込んで出来の悪い生徒を励ましてくれたのです。11月の試験前には土日も無く、毎日午前1時過ぎまで勉強しました。先生も1週間に1回位 しか家に帰るぐらい、寝食を共にして頑張りました。この結果、友人は日大法学部に推薦入学が決定しました。

  しかしヒデミツは好成績ですが、日大経済学部にはあと2点不足のため不合格。やむなく一般 入試を受験しましたが不合格。やっぱりディスコで遊んでいたことがいけなかったと反省し、浪人を覚悟していましたが卒業間近の3月中旬に担任の先生から日大経済学部に「補欠合格」連絡があり、なんとか日本大学に進学が決まったのです。日本大学附属校生は、内申書の評定とともに、日大統一テストでの標準化点(偏差値のようなもの)で各学部への推薦が決まる仕組みでした。当時全国で附属生は約1万2000人。募集枠は学部、短大、2部を合計しても約4000人程度であり単純に3人に1人しか推薦されません。

  このため、一発勝負でも日大統一テスト対策を万全なものにすれば日大に進学できたのです。ヒデミツもこの仕組みがあったからこそ、数ヶ月の特訓で2年間の遊びを克服。なんとか好成績を残すことができたのです。だからこそ、このような日大附属生のために、統一テストを乗り切る家庭教師センターの設立を思い立ったのです。

第4章

【がむしゃらに300万円を稼ぐ】
 1989年、日本大学経済学部に入学したヒデミツは、1年生となった6月 から、5ヶ月間家にも帰らず新潟県の苗場プリンスホテルで住みこみのアル バイトに精をだしました当時の時給は1500円。 雪かきには特別手当、午後8時以降は深夜手当がつくため午前6時から午後 11時半までハードな仕事をこなしました。5ヶ月間で休みは3日だけ。 皿洗い、配膳、ゲレンデの整備、人のいやがる仕事もすすんでやりました。 なんでも屋という異名を取るほど、アルバイトに情熱を賭けたのです。住み 込みのため食費もかからず朝から夜遅くまで働きずめのため、お金を使うこ とはありませんでした。ひたすら自らの目標に向かって頑張りました。 附属高校生の為に家庭教師センターをつくろうと働いた汗の結晶300万円 をヒデミツは自らの労働で手に入れたのです。

【日統一ゼミナールを設立】
 300万円を元手にヒデミツは、大学2年生となった1990年4月、附属 生の為の日大進学専門家庭教師センター「日統一ゼミナール」を立ち上げま した。自らが附属生として「統一テスト」を受験した経験から、その対策に は基礎強化が重要でありマンツーマンが最適な学習法と考えたのです。 そして統一テストに詳しい講師陣を揃え、日大進学の専門塾としてスタート させました。 また内申書には定期試験で評価が決まることから中間、期末試験の前の特訓 コースを設けるなど自らの体験をビジネスに生かしていきました。さらには 「業界初、FAX通信指導コース」を作り今までの学習塾とは想像もつかな いサービスも開始。今日のインターネット役所の原点でもあったのです。

【すぐに学習塾は行き詰まる】
  しかし、ヒデミツのビジネスは思ったほど、やさしいものではありませんで した。塾生募集のためのパンフレット製作費、講師陣の選定、カリキュラム の作成などなど、次から次へと経費は増えていき、あっという間に元手は失 くなってしまったのです。自ら始めた事業だけに両親に支援を求めるわけに はいかず、クラブのボーイのアルバイトで運営資金を捻出するようになりま した。この頃はバブルの絶頂期でもあり、「こんなにたくさんのお金を使う 経営者になりたい」と思いながら灰皿を取り換えたり、ドリンクを配んでい たのです。 ヒデミツはどんな仕事にも「こうすれば効率的だ」「こんなやり方がある」 などいつでもバーチャルな問いかけをしながら仕事に向かっていきました。 小学生の時、父から教えられたテレビに向かっての語りかけが現実の社会で 役立っていたのです。クラブでのボーイのアルバイトとともに自ら学習塾講 師として日統一ゼミナールの補填のために働き出しました。

【ビジネスの師、紀岡代表と出会う】
  当時、大田区内だけでも講師200人をかかえる「一橋ゼミナール」の塾講 師となって塾経営の基本を学んでいきました。この一橋ゼミナールの代表、 紀岡直樹氏こそ、ヒデミツのビジネスの師であり目標の人でした。クラブで 出会う経営者よりも、実際の現場でリーダーシップを発揮する代表を身近に 触れることで、ビジネスへの意欲はさらに高まっていったのです。「こんな 経営者になりたい」「こんな会社運営をしたい」いつでも、どこでもヒデミ ツは前向きな考えです。一橋ゼミナールでの塾経営のノウハウを学んだから こそ、自らが代表の日統一ゼミナールをなんとか運営していくことができた のです。

  1992年4月1日、商法改正で株式会社の出資金が50万円から1000 万円に引き上げられることになりました。このためヒデミツは3月末、日統 一ゼミナールの運営を主体とした株式会社情報通信ネットワークを設立しま した。

第5章

【情報通信ネットワーク設立】
  1992年、大学3年生の3月に設立した情報通信ネットワークは自ら興こ した日統一ゼミナール運営と塾講師を派遣する事業を主体とするものでした。 この会社組織を作り上げる前に出会ったのがヒデミツが講師となった一橋ゼ ミナールの紀岡直樹代表です。学習塾経営者として成功していた人物を間近 に接したことが企業経営の醍醐味に触れ、会社設立となりました。

【原理、原則を重んじる経営】
  紀岡代表は、他の講師からは煙たい存在でした。講師たちが契約の途中で止 めたり、禁止されていたGパンをはいての授業には厳しく対応していたから です。講師たちから見れば「もっと大目に見て」と思われることでも紀岡代 表は徹底的に校則、規則を重んじた塾運営を展開。原理、原則を重んじるこ とによって、教室を拡大。1500人もの生徒数を誇る東京の城南地区では 最大の学習塾経営者であったのです。 こうした経営者を身近に見ていたヒデミツは「いつか自分も」というあこが れの気持ちで塾講師を続けました。また紀岡代表が教室を拡大し、資金が増 えているにもかかわらず、ブランド品や高級車を購入するわけでもなく、ご くごく普通の姿での経営者も魅力のひとつでした。紀岡代表が他の講師から おそれられるのには理由があるわけです。ヒデミツはもちろんのこと講師全 員が理由もなく叱責されたのではありません。規則を守らない同僚講師が悪 いとヒデミツは感じていました。おこられた講師たちが「反代表」のカゲ口 を言っても、アルバイト講師たちは経営者には勝てない現実を実感していき ました。 

【リーダーシップに感動】
  紀岡代表はよくヒデミツたちを食事に誘ってくれました。そのとき語る「自 分が思うようなビジネスを展開したい」という経営者の姿はあこがれでした。 誘われても、紀岡代表を嫌っている講師たちの断る度量 の狭さには失笑。自 らに非があるから叱責をうけるわけで規則を守って働く人達に紀岡代表の叱 責はありませんでした。ヒデミツは、経営者として非のある人間は必ず組織 全体を病んでしまうことを恐れていたからだと思いました。Gパンなどは確 かに個人の嗜好、センスの問題ですが、ひとつの団体組織として講師は清潔 な服装で教壇に立つことを決めた以上は講師たちにその規則を守らせること が組織の規律でもあったわけです。 だからこそ、ヒデミツはささいなことに激怒する紀岡代表を嫌うのではなく 経営者としてのリーダーシップに感動していたのです。 

【カラダ全体で会社経営を学ぶ】 
  紀岡代表と毎日のようにお酒や食事をしながら経営の難しさ、経営者として の立場をカラダ全体でヒデミツは覚えていきました。 ある時、話題となったのが「講師が集まらない」ということでした。進学実 績が高まれば生徒は口コミで増えていきましたが講師は単なる募集広告では 集まらないのが実状でした。かつて小学生の時、「生徒が集まらない」とい う学習塾の先生の一言を聞いて生徒募集の代理店活動をしたように、ヒデミ ツは、講師が集まらないのなら自分が集めてみようと思ったのです。小学生 の時とは違い、すでに日統一ゼミナールも設立しているわけですから、こん どはホンモノの事業としての塾講師派遣事業をスタートさせたのです。