日本初への挑戦!情報通信ネットワークは
「便利だね」が励みになります

ヒデミツの恩人

第6回 日本初の事業を次々と、ヒデミツの発想に期待

カテゴリ:ヒデミツの恩人

 謄本取得作業を始めることを聞いた時、私は全国のネットワークをどうやって構築していくのか心配でした。しかし、佐野くんは「お客様のためになる仕事」という志を大切に新しい事業を展開していったことは、私には考えられない視点です。事業の意義が明確であり、お客様のニーズに応えたビジネスがみんなの支持を受けたのだと思います。

 「日本初」どんな事業でも自らがパイオニアとして頑張るという学生時代の夢が、ひとつ実現できたのです。佐野くんの発想でいまでは「謄本取得代行」が当たり前のようになってきました。IT時代が進む中で、果たすべき情報通信ネットワークの役割はさらに大きくなるのではないでしょうか。ヒデミツの新しい発想、新しい視点からもっともっとビジネスアイデアが生まれることを期待しています。

同級生 井上満さん(A型しし座)談

第7回 これはモノになる

カテゴリ:ヒデミツの恩人

 情報通信ネットワークは1994年5月から登記簿謄本の取得代行業をスタートさせました。私は前年まで車販売会社の営業マンをしておりましたが、ヒデミツの新たな事業展開に賛同、社員第一号となって働くことになりました。中学校からの同級生、同じ学習塾、さらに大学時代のヒデミツは母の経営するクラブでボーイのアルバイトをするなど家族ぐるみのお付き合いがありました。

 今までのヒデミツは「こんな商売は儲かる」「ビジネスチャンスだ」「水に塩を混ぜたバッテリー」など、会うたびに様々な商売を語っていた「商人」でした。子供の頃から「変人」でしたので、大人になってからは「変人」から「商人」になっただけですが、とにかく普通の友人とはまるっきり違うヒデミツでした。

 公簿取得代行業のビジネス構築を打ち明けられた時、私も車販売会社ではお客様の謄本取得の仕事をしたこともあり「これはモノになる」と直感、ヒデミツと一緒に仕事をする決心をしたのです。

創業時社員第一号 小松 忠さん(AB型さそり座)談

(現 ドコモエンジニアリング⑭ ネットワークサービス事業部 技術協力担当)

第8回 必ず成功する

カテゴリ:ヒデミツの恩人

 当時は、JR蒲田駅西口近くの古いビルの3階に情報通信ネットワークがあり、ヒデミツと私の2人だけのスタートです。「景気が良くても謄本は必要」ですから「これはいける」とヒデミツの発想を信じたので、毎日、司法書士さんや行政書士さんに電話をかけたり、法務局周辺を歩いて「提携」をお願いしていました。夕方からは発注書を手書きで書く仕事が待っていて、帰りは午前2時頃という勤務の連続でした。

 私は「必ず成功する」と強く感じていました。だからこそ、初めてのビジネスでいろんな事に直面しましたが、真っ白なキャンパスに筆を走らせるような楽しさしか頭の中にはありません。常に前向き指向で仕事に取り組みました。

「司法書士さんに断られた」

「公簿取得代行などとんでもない」

などと、辛い事があってもヒデミツと一緒に困難に立ち向かっていくことは、新鮮さを感じ、逆にやる気が沸いてくる毎日に変わっていったのです。

創業時社員第一号 小松 忠さん(AB型さそり座)談

(現 ドコモエンジニアリング⑭ ネットワークサービス事業部 技術協力担当)

第9回 手づくりの会社が魅力

カテゴリ:ヒデミツの恩人

 手書きの発注、提携する司法書士さんを手探りで求めていくことは大変な作業でした。どんなにがんばっても1日100件をこなすのは至難のワザです。ヒデミツは主に外回りの営業、私は内部の事務体制の確立を図る役目でした。

社員も1人、2人と増えてきましたので社員管理も任されてしまいました。当時は古いビルの3階に情報通信ネットワークがあり、社員応募者は暗い階段を上がっていくので、かなりの勇気が必要だったと思います。新しいビジネスモデルの会社なのに、事務所は自社ビルと言っても、とても最新ベンチャー企業とはほど遠いイメージだったのです。だからこそ、入社を決意した人達は見た目よりも中身で一生懸命、脇目もふらずに頑張ってくれたのです。

新しいビジネスですからマニュアルがあるわけでもなく、何から何まで社長のヒデミツと私がこなさなければならない手作りの会社でした。全てが目に見える全ての仕事がわかることが私をやる気にさせたのだと思います。

創業時社員第一号 小松 忠さん(AB型さそり座)談

(現 ドコモエンジニアリング⑭ ネットワークサービス事業部 技術協力担当)

第10回 特異な病気が判明した小学生のヒデミツ

カテゴリ:ヒデミツの恩人

 小学校5年生の夏、ヒデミツは次の授業が待ち遠しいほど「水が欲しい」、階段を上り下りするにも「体がだるい」といった症状を両親に訴えました。この訴えに驚いた両親は、すぐに近くの東邦医大病院にかけこみました。この時、下された診断は「即入院」という信じられない結果でした。病名は「インシュリン依存性糖尿病」です。体の中からインシュリンを生み出す機能がまったく働かない、日本では10万人に8人という特異なものです。入院は5ヶ月間にも及び、高学年になったヒデミツは大ピンチ。そして入院中だけでなく、これから毎日一生涯にわたり注射を打たなければならないことは、5年生の子供にとっては大ショックです。両親の驚きはもちろんのこと、人生が終わってしまうくらいの暗い空気が佐野家を襲ったのです。けれどもヒデミツは、自ら教科書を開き、自ら勉強する時間を作りだし前向きでした。この明るい姿勢が自らを救うことになるとは、当時のヒデミツは知る由もなかったのですが、その時......。