日本初への挑戦!情報通信ネットワークは
「便利だね」が励みになります

ヒデミツの商い

第1章

【ひとりっ子誕生】
 1970年(昭和45年)9月30日、父は親族が経営するガソリンスタンドに勤務する佐野光雄、母は教員である恒子の長男としてヒデミツは東京都大田区で生まれました。O型てんびん座です。2400g という小さなカラダでしたが、母方のおばあちゃんに一人っ子として大事に育てられました。父は、会社に、母は教員として学校に行ってしまうため、ヒデミツはおばあちゃん子でした。

 3歳の時、英語塾に行きたいと両親に頼みましたが「まだ早いわ」と断られてしまいました。しかし、ヒデミツはあきらめることなくおばあちゃんと一緒に英語塾を訪問。入学金、学費をすべて、おばあちゃんに出させることに成功。入塾を果たすことが出来ました。これはヒデミツのおぼえている初めての出来事であり、今日の原点のような気がします。西蒲田保育園、幼稚園に通 う頃は、家のそばの駐車場で自転車に乗って遊んでいました。乗り物が大好きな活発な子供でしたが、夢は宇宙の果てを探す博士になりたかったようです。卒園文集で将来の職業の欄には「こっかいぎいん」と書くなど、ひと味違うヒデミツ少年です。まわりには、政治家は一人もいなくても志は幼稚園の頃から高かったのです。  

【父の教育方針】
  大田区立相生小学校に入学すると、父はヒデミツに次のような3つの課題を与えました。ひとつ目は、わからないままにも新聞を切り抜き、その感想文を書くことです。B5版のノートの左に新聞の切り抜きを貼り、右の部分にその記事の感想文を書きました。小さな頃は、記事よりも写 真が大きなものを選んで書いていた様です。

  ふたつ目は、テレビに向かってアナウンサーに話し掛けることです。父のひざの上でテレビを黙ってみるのではなく、アナウンサーにどんどん勝手に質問をしていくのです。「このネクタイは気に入らない」「○○とはどんなことか詳しく説明を」「本当にそうなのか」などなど。大人とのバーチャルな対話を求められていたのです。

  みっつ目は、テレビはニュースしか見られないことです。両親からは「勉強しなさい」などと強要されたことは一切ありませんでしたが、普通 の子供達の見るマンガや娯楽番組をみた記憶はヒデミツにはありません。こうして、父からは知らず知らずに勉強への自立心を植え付けられていったのです。しかし、小学校3年生の時、突然ヒデミツは半年間休学となりました。いったいヒデミツの身に何が起こったのでしょうか・・・。

第2章

【難病が発症】
 1979年夏、次の休み時間が待ち遠しいほど水が欲しいと「喉が乾く」、階段を上り下りするにも「体がだるい」といった症状を両親に訴えました。ヒデミツの訴えに驚き、すぐに近くの東邦医大病院に駆け付けました。この時下された診断は「即入院」という信じられない結果 でした。病名は「インスリン依存型糖尿病」です。体の中からインスリンを生み出す機能がまったく働かない、日本では4000人に1人という特異なものです。入院は約5ヶ月も続き、学校に通 えない毎日でした。

  病院では、特別の手当をするわけではなく、食事制限の栄養指導や血糖値を自分で測ること、インスリンの注射を自分で打つことの指導が行われました。また、週2回は学校の担任の先生が病院にやってきて勉強を教えてもらったり、縄跳び、階段で歩くことなど運動をすることへの習慣付けの訓練で、学校の授業には遅れをとることはありませんでした。

【逆境をバネに】
 退院の時一番ショックを受けたことは、毎日4回も注射をうち、血糖値を測ることを申し渡されたことです。入院中だけのことと思っていたことが、これから一生続けなければならないことが悲しかったのです。しかしヒデミツは「悲しい」などと否定的になることではなく、ハンデを乗り越えるためにひたすら勉強することで悲しさを吹き飛ばそうと頑張りました。帽子やランドセルには黄色のカバーがつけられたり、体操着は普通 の子と識別されるものでした。けれども、このハンデは勉強することで乗り越えられるとガムシャラに机に向かうことで成績はほぼオール5。クラス、学年トップを維持しました。

第3章

【東大をめざして高校進学】
  1986年4月、ヒデミツは日本大学附属習志野高校に入学しました。東大を目指す開成や慶応を希望しましたが、いずれも健康診断書の提出が求められ、持病である「インスリン依存型糖尿病」のヒデミツは、書類審査の上ではずされてしまうのです。このため健康診断書の提出の無い、日大習志野高校を選んだのです。外部進学率が断トツトップの附属校という、目標を持つヒデミツには最高の環境が整いました。片道2時間もかけて、進学する姿を見た両親は学校に近い東京都葛飾区新小岩に住まいを移すなど、熱心にヒデミツの後方支援をしてくれました。

【ディスコに熱中】
  両親の期待を一身に受け、高校入学と同時に駿台予備校に通って、1年生から東大をめざす勉強に励んでいきました。しかし、この予備校で知り合った友人についていった渋谷のディスコこそ、ヒデミツにとっては大きな転機となってしまったのです。初めて踏み込んだ大音響と点滅の照明のディスコは、刺激的でした。好みの女の子と気軽に話すこととができるディスコは、本当にヒデミツにとっては天国でした。3〜4人の友人たちとグループを作り、終電車までディスコで踊ったり、ナンパした女の子と話し込む暮らしになってしまいました。

  小中学校の時に学習塾の塾生斡旋で得たお金も底をついてきたため、今度はディスコの店員としてアルバイトをするようになりました。「青春のスベテはディスコ」と親からこずかいをもらって遊ぶのではなく、あくまでも自らが汗を流して、自由な遊びをしていたのです。両親も「早く帰って来い」とは注意をするものの、高校生となったヒデミツを信頼して、口うるさく力でねじふせるものではなかったので、ヒデミツはますます女の子との遊びに熱中していきました。ディスコ遊びに熱中するあまり、成績はどんどん落ちていきました。1学年430人中、400番位 です。ヒデミツの下には10人位しかいないため、常に自らの位置がよく見える成績でした。

【日大進学のカラクリで学んだもの】
  高校3年生の1学期が終わる頃、「このままでは日大にもはいれないぞ」と担任の先生に言われ、「はっ」としたのです。秋の日大附属の統一テストに向けて、ガムシャラに勉強を開始しました。 習志野高校は、日大の附属高の中でも偏差値は断トツのトップでしたので、成績は附属高全体での評価ですから悪くても5段階のうち4しかつかないのです。統一テストさえクリアすれば、日本大学の希望学部に入学できるのです。

  このため、習志野高校で数学を教える非常勤の先生に頼んで、友人と2人の特別 補習をお願いしたのです。統一テストさえ頑張れば、いままで遊んで来たことが帳消しになって日大に入学できるからです。1日6〜7時間の猛勉強が始まりました。家庭教師の先生とは、ディスコやビリヤードに行くなど友達のような関係だったので親身になってくれました。ヒデミツの家や友人の家に泊まり込んで出来の悪い生徒を励ましてくれたのです。11月の試験前には土日も無く、毎日午前1時過ぎまで勉強しました。先生も1週間に1回位 しか家に帰るぐらい、寝食を共にして頑張りました。この結果、友人は日大法学部に推薦入学が決定しました。

  しかしヒデミツは好成績ですが、日大経済学部にはあと2点不足のため不合格。やむなく一般 入試を受験しましたが不合格。やっぱりディスコで遊んでいたことがいけなかったと反省し、浪人を覚悟していましたが卒業間近の3月中旬に担任の先生から日大経済学部に「補欠合格」連絡があり、なんとか日本大学に進学が決まったのです。日本大学附属校生は、内申書の評定とともに、日大統一テストでの標準化点(偏差値のようなもの)で各学部への推薦が決まる仕組みでした。当時全国で附属生は約1万2000人。募集枠は学部、短大、2部を合計しても約4000人程度であり単純に3人に1人しか推薦されません。

  このため、一発勝負でも日大統一テスト対策を万全なものにすれば日大に進学できたのです。ヒデミツもこの仕組みがあったからこそ、数ヶ月の特訓で2年間の遊びを克服。なんとか好成績を残すことができたのです。だからこそ、このような日大附属生のために、統一テストを乗り切る家庭教師センターの設立を思い立ったのです。

第4章

【がむしゃらに300万円を稼ぐ】
 1989年、日本大学経済学部に入学したヒデミツは、1年生となった6月 から、5ヶ月間家にも帰らず新潟県の苗場プリンスホテルで住みこみのアル バイトに精をだしました当時の時給は1500円。 雪かきには特別手当、午後8時以降は深夜手当がつくため午前6時から午後 11時半までハードな仕事をこなしました。5ヶ月間で休みは3日だけ。 皿洗い、配膳、ゲレンデの整備、人のいやがる仕事もすすんでやりました。 なんでも屋という異名を取るほど、アルバイトに情熱を賭けたのです。住み 込みのため食費もかからず朝から夜遅くまで働きずめのため、お金を使うこ とはありませんでした。ひたすら自らの目標に向かって頑張りました。 附属高校生の為に家庭教師センターをつくろうと働いた汗の結晶300万円 をヒデミツは自らの労働で手に入れたのです。

【日統一ゼミナールを設立】
 300万円を元手にヒデミツは、大学2年生となった1990年4月、附属 生の為の日大進学専門家庭教師センター「日統一ゼミナール」を立ち上げま した。自らが附属生として「統一テスト」を受験した経験から、その対策に は基礎強化が重要でありマンツーマンが最適な学習法と考えたのです。 そして統一テストに詳しい講師陣を揃え、日大進学の専門塾としてスタート させました。 また内申書には定期試験で評価が決まることから中間、期末試験の前の特訓 コースを設けるなど自らの体験をビジネスに生かしていきました。さらには 「業界初、FAX通信指導コース」を作り今までの学習塾とは想像もつかな いサービスも開始。今日のインターネット役所の原点でもあったのです。

【すぐに学習塾は行き詰まる】
  しかし、ヒデミツのビジネスは思ったほど、やさしいものではありませんで した。塾生募集のためのパンフレット製作費、講師陣の選定、カリキュラム の作成などなど、次から次へと経費は増えていき、あっという間に元手は失 くなってしまったのです。自ら始めた事業だけに両親に支援を求めるわけに はいかず、クラブのボーイのアルバイトで運営資金を捻出するようになりま した。この頃はバブルの絶頂期でもあり、「こんなにたくさんのお金を使う 経営者になりたい」と思いながら灰皿を取り換えたり、ドリンクを配んでい たのです。 ヒデミツはどんな仕事にも「こうすれば効率的だ」「こんなやり方がある」 などいつでもバーチャルな問いかけをしながら仕事に向かっていきました。 小学生の時、父から教えられたテレビに向かっての語りかけが現実の社会で 役立っていたのです。クラブでのボーイのアルバイトとともに自ら学習塾講 師として日統一ゼミナールの補填のために働き出しました。

【ビジネスの師、紀岡代表と出会う】
  当時、大田区内だけでも講師200人をかかえる「一橋ゼミナール」の塾講 師となって塾経営の基本を学んでいきました。この一橋ゼミナールの代表、 紀岡直樹氏こそ、ヒデミツのビジネスの師であり目標の人でした。クラブで 出会う経営者よりも、実際の現場でリーダーシップを発揮する代表を身近に 触れることで、ビジネスへの意欲はさらに高まっていったのです。「こんな 経営者になりたい」「こんな会社運営をしたい」いつでも、どこでもヒデミ ツは前向きな考えです。一橋ゼミナールでの塾経営のノウハウを学んだから こそ、自らが代表の日統一ゼミナールをなんとか運営していくことができた のです。

  1992年4月1日、商法改正で株式会社の出資金が50万円から1000 万円に引き上げられることになりました。このためヒデミツは3月末、日統 一ゼミナールの運営を主体とした株式会社情報通信ネットワークを設立しま した。

第5章

【情報通信ネットワーク設立】
  1992年、大学3年生の3月に設立した情報通信ネットワークは自ら興こ した日統一ゼミナール運営と塾講師を派遣する事業を主体とするものでした。 この会社組織を作り上げる前に出会ったのがヒデミツが講師となった一橋ゼ ミナールの紀岡直樹代表です。学習塾経営者として成功していた人物を間近 に接したことが企業経営の醍醐味に触れ、会社設立となりました。

【原理、原則を重んじる経営】
  紀岡代表は、他の講師からは煙たい存在でした。講師たちが契約の途中で止 めたり、禁止されていたGパンをはいての授業には厳しく対応していたから です。講師たちから見れば「もっと大目に見て」と思われることでも紀岡代 表は徹底的に校則、規則を重んじた塾運営を展開。原理、原則を重んじるこ とによって、教室を拡大。1500人もの生徒数を誇る東京の城南地区では 最大の学習塾経営者であったのです。 こうした経営者を身近に見ていたヒデミツは「いつか自分も」というあこが れの気持ちで塾講師を続けました。また紀岡代表が教室を拡大し、資金が増 えているにもかかわらず、ブランド品や高級車を購入するわけでもなく、ご くごく普通の姿での経営者も魅力のひとつでした。紀岡代表が他の講師から おそれられるのには理由があるわけです。ヒデミツはもちろんのこと講師全 員が理由もなく叱責されたのではありません。規則を守らない同僚講師が悪 いとヒデミツは感じていました。おこられた講師たちが「反代表」のカゲ口 を言っても、アルバイト講師たちは経営者には勝てない現実を実感していき ました。 

【リーダーシップに感動】
  紀岡代表はよくヒデミツたちを食事に誘ってくれました。そのとき語る「自 分が思うようなビジネスを展開したい」という経営者の姿はあこがれでした。 誘われても、紀岡代表を嫌っている講師たちの断る度量 の狭さには失笑。自 らに非があるから叱責をうけるわけで規則を守って働く人達に紀岡代表の叱 責はありませんでした。ヒデミツは、経営者として非のある人間は必ず組織 全体を病んでしまうことを恐れていたからだと思いました。Gパンなどは確 かに個人の嗜好、センスの問題ですが、ひとつの団体組織として講師は清潔 な服装で教壇に立つことを決めた以上は講師たちにその規則を守らせること が組織の規律でもあったわけです。 だからこそ、ヒデミツはささいなことに激怒する紀岡代表を嫌うのではなく 経営者としてのリーダーシップに感動していたのです。 

【カラダ全体で会社経営を学ぶ】 
  紀岡代表と毎日のようにお酒や食事をしながら経営の難しさ、経営者として の立場をカラダ全体でヒデミツは覚えていきました。 ある時、話題となったのが「講師が集まらない」ということでした。進学実 績が高まれば生徒は口コミで増えていきましたが講師は単なる募集広告では 集まらないのが実状でした。かつて小学生の時、「生徒が集まらない」とい う学習塾の先生の一言を聞いて生徒募集の代理店活動をしたように、ヒデミ ツは、講師が集まらないのなら自分が集めてみようと思ったのです。小学生 の時とは違い、すでに日統一ゼミナールも設立しているわけですから、こん どはホンモノの事業としての塾講師派遣事業をスタートさせたのです。

第6章

【お金をかけない講師集め】
  1993年大学4年生の頃は、ヒデミツは一ツ橋ゼミナールを含め他の学習 塾の講師集めに熱中していました。当時の求人情報紙にはたくさんの講師募 集が掲載されていました。ヒデミツはお金をかけて目を引く広告を出しても ダメ。みんなと同じことをしていては、講師は集まらないと思っていました。 たくさんのお金をかけた募集活動をやって講師を集めることは誰にでもでき ます。こんな簡単な事ならヒデミツに講師依頼などくるはずがありません。 ヒデミツはある秘策を持っていたのです。 

【大学構内の掲示板にポスター】 
  ヒデミツはまず、一都三県の大学構内の掲示板に講師募集の張り紙を手作り でつくって掲示してもらいました。もちろん掲示料はタダ。直接大学を訪問 して頼んだり、郵送でも掲示してくれる大学もあり、お金のかからない募集 方法でした。募集方法が画期的でも集まった講師希望の大学生を派遣する学 習塾がなければビジネスにはなりません。昼間は熱心にいろんな学習塾を直 接訪問して講師派遣の営業をかけました。直接頼まれた一橋ゼミナールだけ では、派遣する学生達の規模は小さいのでもっと大掛かりな講師派遣を目指 したのです。

【付属高で大学生名簿を入手】
 そんな時、栄光ゼミナールでは当時埼玉県深谷校に講師が集まらないと言う 話がありヒデミツは「まかせて下さい」と胸を張って講師集めを約束しまし た。確実な見通しはありませんが、困っていることを解決できれば栄光ゼミ ナールは必ず定期的なお客様になることを感じたので、なんとか栄光ゼミナ ールとの取引を始めたいと思いました。まず、ヒデミツは早稲田本庄高等学 校の前に立って、通 学途中の生徒と接触。彼らの持っている生徒名簿をコピ ーしてもらうことに成功。この名簿をもとに電話での講師勧誘を行っていき ました。附属校のため、ほとんどが早稲田大学に進学する生徒ですから、古 い名簿でも現役の大学生名簿としては最高の宝物です。大学当局に頼んで、 深谷近郊の大学生名簿を手に入れることさえ難しいのですから、ヒデミツの 名簿集めは最良です。深谷市という地方都市でも簡単に効率的に近所の大学 生をゲットすることができたのです。慶応大学日吉校舎の前では、サークル の勧誘ということで現役学生の名簿を集めたり、どんなに都心から離れた地 域でもヒデミツの行動力で講師募集は順調にすすんでいました。 

【学生ベンチャー企業は大成功】
  乗用車の上にスキーキャリーをつけ、講師募集の看板を運んで講師の足りな い地区の大学の正門で看板を立てての募集活動。案内チラシを駅前や大学前 で配ったり、自衛隊募集よりも効率的なよびかけです。こうして日大附属生 のための進学塾経営と学習塾への講師派遣事業は好調。講師派遣も1ヶ月に 100人規模を確保することができ、学生社長の事業としては大成功です。 しかし、こんなに商売にのめりこんでいたわけですから大学3年の終わりの 頃、卒業見込みが立たないほどの単位 不足でした。すでに同級生達は就職活 動に没頭していましたがヒデミツはどんなことがあっても卒業をしなければ と必死でした。大学4年生の1年間だけで60単位を取得。128単位とい うギリギリのラインでなんとか日本大学経済学部を1993年3月卒業する ことができました。大学4年間でヒデミツは通学定期券を買うこともなく、 商売に力を注いでいたわけですから、卒業後は一般 企業への就職など考えた こともなく、ひたすら情報通信ネットワークの発展だけを考えていたのです。

第7章

【自民党学生部に入部】
  1993年3月にヒデミツは日本大学経済学部を卒業しましたが、在学中は 一橋ゼミナールの紀岡直樹代表にすすめられ、自由民主党学生部に在籍して いました。学生部は政権与党である自民党の活動を支援する学生組織であり、 様々な大学の学生との交流が出来ました。ビジネスに熱中することばかりで なく、お医者さんや議員さん、官僚を目指す人々と知り合ったことは大きな 刺激となりました。お金を儲けることばかりでなく未来への夢を語り合うこ とは起業家をめざすヒデミツにとっては重要なことなのです。 

【ナマの国会議員を知る】 
  選挙になると学生部はフル回転。東京都内のポスター張りからビラ配布、演 説会の準備、選対本部要員などなど学生部の活動にのめりこんでいったので す。こんな選挙のお手伝いをする中でもヒデミツはビジネスへのヒントは忘 れません。どんな分野でもビジネスは成り立つと思っていました。選挙の前 には大量 のポスターを街中に張らなければなりません。選挙になれば宣伝カ ーのウグイス嬢、候補者が街頭に立てばビラを配ったり、のぼり旗を立てる 運動員が必要です。ヒデミツはより活動的な、エネルギッシュな学生を集め たり、女子大生のウグイス嬢を確保していきました。 子供の頃の夢であった「こっかいぎいん」という職業に間近で触れたことで、 さらに政治への興味が沸いてきたのです。 

【政治でもビジネス手法を発揮】 
 すでに学習塾の講師派遣を行っていたのですから、こうした政治活動におい てもウグイス嬢や学生ボランティアを集めることは難しいものではありませ んでした。選挙前の政治活動では公職選挙法の制約がありませんから学生バ イトは自由に活用できます。立候補予定者にダイレクトメ--ルで派遣の売り 込みを開始。日本全国、毎月どこかで選挙が行われているため関東近県ばか りでなく岡山や広島にも派遣の依頼がありました。 今では珍しくはないのですが候補者の等身大の看板ポスターを売り込んだり、 ポスター張り要員の派遣など手広い営業活動を展開。さらには、学生部の先 輩が立候補する時にはポスターやビラの製作、学生アルバイト、ウグイス嬢 の手配、演説会集会の設定、企業団体訪問など選挙参謀として活躍。まさに 選挙の醍醐味を体感していったのです。 

【公選法の壁にぶち当たる】 
  平成5年の総選挙では国政をめざす新人候補者を応援、当選させることがで きました。この時ヒデミツは数百人規模の人材を派遣していきましたが、公 職選挙法という大きな壁があり、学習塾の講師派遣のように自由にビジネス をしていくことができない限界を知りました。公職選挙法がある限りビジネ スとしての未来が見えなかったのです。電話作戦の要員派遣にあたっては、 取締当局からの指摘もあってボランティアでした。選挙前はアルバイトは自 由に活用できますが選挙期間中は全員がボランティアですからビジネスには なりにくかったのです。 

【本物のビジネスを求めて】 
  この頃ヒデミツは自販機の設置ビジネス、選挙グッズの販売、講師派遣、学 習塾など様々な分野での営業活動を展開していました。こうした活動の中で、 いよいよ情報通 信ネットワークの基礎となる公簿取得代行にあたってのヒン トが生まれていったのです。商売とは日本国民が最低1年に1回は使うもの を考えるべき。派遣業とか単なる物を売るだけでは限界があります。ヒデミ ツは売上が1兆円を超える商売こそ本物のビジネスと考えるようになってい ました。

第8章

【公簿取得代行業のスタート】
 1995年1月、ヒデミツは全国の不動産、会社登記簿謄本の配達業務 を開始するため首都圏を皮切りに全国の法務局最寄りの司法書士、行政書 士事務所を訪問。公簿取得代行業への協力をお願いすることになりました。 今日の情報通信ネットワークの始まりです。

  ヒデミツにとっては、法務局の謄本などとは縁がありませんでした。先 輩が埼玉 県議会議員選挙に出馬する時、ポスターやビラの製作と共に政策 づくりも担当することになりました。 
「役所の窓口は不親切」
「駅前に市役所の窓口が欲しい」
「謄本はどの法務局でも自由に取れたら良い」
「法務局の混雑緩和」 
「もっと市民のための行政サービスを」
などなど様々な「市民サービスの充実」を県議選での政策を取り入れ ていったことがビジネスのヒントとなりました。

  もともと、ヒデミツは会社の設立登記は司法書士さんに頼むのではなく、 自分で申請しました。会社の仕組みを理解するためにも自らが汗を流すべ きと思ったからです。 法務局は「えらい混み合っている」ヒデミツの第1 印象でした。なぜこんなに混んでいるのか不思議でした。それはお客様が 申請を出して、30分、40分もかかるため、どんどん申請者はたまってしまうからです。みんな黙って待っていることはさらに不思議な光景でした。

【お客様が役に立つビジネス】
 県議選で打ち出した「市民サービスの充実」はこうしたヒデミツの体験 に基づくものです。市民が求めているものはお役所仕事の便利さでした。 法務局でみた、謄本をとりにくる人の多さと待っている時間のロスから公 簿取得の代行業を考えていきました。県議選の政策でも「市民サービスの 充実」は最も浸透しやすい訴えであり、強い市民の要望だったのです。謄本を申請して手にするまでひたすら待ちつづける時間のロスはヒデミ ツにとっては苦痛なもの。だからこそもっと効率的に取得が出来ないもの かと考えていったわけです。

  まず同級生の父親が永年法務局に勤務したあと、公証人をしていること から公簿取得代行業のプランを相談しました。40年近くも法務行政に携 わってきた元横浜地方法務局次長の国松新成さんです。 役人とは役に立つ 人、法務局の窓口に相談にきた人を大事にすることを後輩に指導してきた だけに、ヒデミツが考えているお客様の立場に立ったサービス、みんなが 喜ぶ事業計画に感動。「司法書士さんが協力してくれるなら良いビジネス ですね」というアドバイスを受け1995年1月の公簿取得代行業のスタ ートとなったのです。

【あらたな顧客開拓】
 最初は登記簿謄本をとるのは弁護士さんや税理士さんが主流と思ってい たヒデミツは名簿を片手に電話やFAXで代行業のPRを展開していきま した。「謄本を取る会社です。1都3県なら2時間以内でFAXします」 などと呼びかけ、お客様を増やしていきました。

  現実は厳しいもの。1週間に数件しかお客様からの注文がない時もあり ました。けれどもくじけることなくフランチャイズ制も取り入れ、1都3 県のエリアの司法書士、行政書士さんとの提携を進めていきました。このフランチャイズ制は福の神となりました。

  ある日代理店からスバル興産という車販売のクレジット会社から毎日15 件くらいの注文が入るようになったのです。ヒデミツは謄本を使うのは弁 護士さんや税理士さんばかりと思っていたのが、リース会社、クレジット 会社、金融機関が大量 に謄本を取っていることを初めて知ったのです。弁護士さんや税理士さんの個人事務所に比べ、クレジット会社等の注文 はケタ違いに大きいものでした。ヒデミツの営業活動にもムチが入ります。 猛烈アタックが展開されていきました。

>【司法書士会との和解】
 しかし、日本司法書士連合会から突然「代理業は司法書士法違反のおそ れがあるので言い分をお聞きしたい」との連絡が入りました。当時は、有 資格者を使わずアルバイトを使った代行業者も存在し、司法書士さんの業 務範囲を脅かすこともありました。ヒデミツのビジネスは司法書士さんか らのアドバイスを受け、司法書士法に沿った事業を実行しており司法書士 さんとの協力が基本でした。 

  あくまでも司法書士さんの力がなくては成立しないビジネスだけにお客 様の信頼も厚かったのです。こうしたヒデミツの企業コンセプトは日本司 法書士連合会から理解を頂きました。お客様と司法書士さんをつなぐビジ ネスは司法書士法には触れないという結論がでて,ヒデミツはさらに事業を拡大していきました。

【業績は絶好調】
 ヒデミツは有頂天です。この頃金融機関A社からも注文が増加の一途をたどり、月商5000万円〜8000万円もの売上を計上する勢いでした。大阪支 店を設置したり資本金を1000万円にしたり本社事務センターを作ったりま さに拡大路線まっしぐら。社員3人で始めた公簿取得代行業はいまや30人 を超える規模に成長していったのです。 

  ヒデミツが商売の基本としていた国民が最低1年に1回は使うものを商 売にしたいと考えていたことが公簿取得代行業だったのです。毎日毎日売 上は伸びる一方です。20代の青年社長はもう舞い上がってしまいました。 学習塾の講師派遣や選挙グッズの販売、自販機の設置などのビジネスとは ケタ違いの金額がヒデミツの手元に集まってきたのです。

第9章

【突然の取引停止】
  1996年の秋、ヒデミツはいつものようにCDを聴きながらタバコを 片手に車で営業活動に出かけていました。その時携帯電話に「金融機関A 社が本社の指示で取引停止」の第一報が入りました。「えっ」次の言葉が 出てきません。当時は情報通 信ネットワークでは9割の売上を占める金融 機関A社からの依頼がなくなってしまうことは倒産を意味します。本社か らは全支店に「情報通信ネットワークとは一切取引するな」という通達が 出されていたのです。今までの担当者に電話をしても「今日からは使えな い」という冷たい言葉がかえってくるだけでした。

【安易な会社経営を反省】
  あわてたヒデミツは営業を中止して、金融機関A社に駆け込みました。 「料金が高いのなら下げます」 「情報通信ネットワークに落ち度があるなら改めます」 「なんとか継続を」 しかし交渉の余地などなく、門前払い。 月商8000万円が350万円に。かつて妻と一緒にサラ金をはしごして 社員の給料を集めたことが頭に浮かんできました。有資格者との連携で他 の業者よりも割高の価格設定をしてきたこと。お客様は情報漏洩はないと いう信頼を買ってくれているんだという自負。安易な気持ちでビジネスを 展開してきたことが悔やまれます。毎日毎日売上が増え続けるために、あ らためて事業を省みることもなく会社には10時頃出社したり、ビジネス に身が入らなかったことがこんな結果になったと反省するのでした。情報 通信ネットワークは右肩上がりの成長しかヒデミツの頭の中にはありませ んでした。こんなノー天気の会社運営をしていたからこそ、突然の大口取 引停止になったと思いました。

【初心にかえる】
  しかし、ヒデミツは売上が1割にも満たない状況になってもくじけるこ とはありません。いっそうの闘志が沸いてきました。自らが有頂天になっ ていたことを反省。まず初心にかえることでした。公簿取得代行業を創業 した出発点に立ったのです。まず司法書士事務所を1軒1軒訪問して「件 数をどんどん出しますから単価を下げてください」お客様の開拓には力を 注ぎ「2時間以内でFAXします」と単価を下げスピードを売り物に新規 の顧客を開拓していきました。ヒデミツの真価は逆境だからこそ発揮でき たのです。

  ヒデミツは夫婦2人3脚で1都3県をまわり続けました。単価を下げる ためには司法書士さんの協力が必要ですから、電話ではなく、直接会って 交渉をすすめました。車で移動する時には東京に戻るのも時間がおしいの で車の中で泊まることもありました。食事もコンビニのおにぎりや弁当が 多くなっていきました。

  また東京都内では車をやめ、電車の中に折りたたみ自転車をかついで営 業活動に出かけました。法務局はどこも駅から遠いためタクシーやバス代 を節約するためにも自転車は最良の足だったのです。毎日朝は7時から夜 は12時すぎまで働き続けました。会社の机の上で寝たり、不眠不休の働 きです。終電車がなくなった社員のために、自宅まで車で送っていったり、 創業時以上に真剣に頑張っていきました。 

【ハングリー精神で危機脱出】 
 残った社員たちも「いつかは再起する」というハングリー精神を強めて、 歯を食いしばってヒデミツと共に頑張りました。耳が聞こえないくらい、 口がまわらなくなるくらい営業の電話をかけました。1分でも早くお客様 に謄本を届けるために仕事のスピードをアップしました。ヒデミツをはじ め社員みんなが若いからこそこんな体育会のような仕事ができたのではな いでしょうか。狭い事務所の中を走りまわってFAXをしたり電話をかけ ていたのです。とびまわる事務所だったのです。

【悲しいリストラ】
  ヒデミツにとって、いままで一緒に働いてきた社員をリストラさせるこ とは悲しいものでした。「人を大事にしない」とカゲ口を耳にしましたが、 売上が1割になってしまうのですからリストラは仕方がありません。9割 の売上をストップさせた見通 しの悪さはヒデミツの責任です。社員の責任 ではありません。しかしお金がなければ社員を雇うことのできないのが現 実なんです。初めての悲しい試練でした。「誰をどう切るのか」一番悩ん だことです。一人一人の社員と話し合って、情報通 信ネットワークの苦し い現状を理解してもらい、スリムな社内体制と司法書士手数料の値下げで 売上減に対応していきました。

【数ヶ月で売上が戻る】 
  金融機関A社1社の売上で急成長していった頃には新規のお客様を開拓 する営業などほとんど皆無でした。毎日自然と各支店からの受注がありま したので入金を確認する楽しみだけでした。しかし取引停止を境に初心に 返った猛烈営業を展開。1ヶ月に500軒もの司法書士事務所を訪問。単 価を1/3に切り下げてもらいました。「2時間でFAX」とスピードを 重視した売りこみで同業者を圧倒することで新規顧客を開拓。こうしたみ んなの努力で数ヶ月という短期間で売上は回復。社員一丸となった頑張り が情報通 信ネットワーク最大の危機を救ったのです。公簿取得代行業を始 めるコンセプトであった、お客様にとって早く、安く、安心して謄本が取 得できることをふたたび目指したことが情報通信ネットワークをよみがえ らせたのでした。

第10章

【M&Aが取引停止の真相】
  1997年が明けた頃、金融機関A社の役員さんが情報通信ネットワー クを訪ねてきました。突然の取引停止の時には電話で話すことも会うこと もできなかった本社の役員さんです。ひょっとしたらまた取引きが再開で きるのかと期待をしました。「情報通 信ネットワークの株を51%譲って 欲しい」と10数億円の小切手をヒデミツの前に置いたのです。突然の停 止以上にびっくり。 26才のヒデミツにとっては信じられない金額です。「これがあれば一生 遊んで暮らせる」もう頭の中は夢のようなパラダイスが拡がっていきまし た。毎年1000万円を使っても、100年もいきていくことのできる金 額なんです。 金融機関A社の小切手はまさに輝いていました。「ありがとうございます」 役員さんと握手をすれば、その日のうちに大金を手に入れることができた のです。

【大金を断る】 
 しかし、ヒデミツの回答は「NO」。51%の株を渡すということは、 これからのオーナー社長ではなく、サラリーマン社長として中途半端な気 持ちで会社経営を続けることになります。学生時代から夢を追い続けてき た情報通 信ネットワークは、自分の会社のようで自分の会社でない状態に なってしまいます。 26才のヒデミツがいま大金を手に入れてしまえば、もうこれまでの人間 になってしまう。10数億円のお金儲けを目指して、企業を設立したわけ ではありません。みんなが便利に、みんなから感謝されるビジネスを構築 してきたヒデミツです。全社員が一丸となってすすめてきた情報通 信ネッ トワークは、大金を手にしたヒデミツによって愛着をうすれ、いずれ支障 が出てしまうことは目にみえていました。 すでにこのお金を元手に夫婦でささやかな喫茶店をつくろうとか、ゆっく り世界旅行をしようなどと考えること事体が会社経営者としてはマイナス です。貯金を毎年少しづつ減らしていく生き方を選択すれば、まともな経 営者になれるはずがないのです。

【M&Aがで情報通信ネットワークを再認識】 
 ヒデミツは目先の10数億円よりも、自ら興した情報通信ネットワーク を信じました。有資格者による公簿取得代行業というビジネスを日本で初 めて構築してきた企業だからこそ、金融機関A社は、企業買収の話を持ち 込んできたのです。 情報通信ネットワークを子会社にさせるために理不尽な突然の営業停止を 仕掛けられたのです。ヒデミツを倒産寸前に追い込めば、ひきとろうと画 策したことを知りました。 はからずも金融機関A社が情報通信ネットワークの価値を認めてくれまし た。みんなの努力で売上も取引停止前にもどり、上昇志向でしたので、次 の目標をヒデミツは株式の店頭公開に置いてました。情報通 信ネットワー クの株式公開が実現すれば、10数億円が10倍にもふくらむはず。「安 売りはいけない」。安易な生き方は自分を堕落させる、いまM&A企業買 収の仕組みもわかったのですから、この事件をバネに情報通 信ネットワー クをさらに飛躍させることをヒデミツは誓いました。 26才のヒデミツは夫婦で静かな暮らしをするなどという生き方には納得 がいきません。商を自らの天性と考え行動し、頑張ってきたことを、単な るお金儲けのためだったと総括することは、とても堪えられない屈辱でも あったのです。

【給料ゼロで再建に全力】 
 企業買収を丁寧にお断りしたヒデミツは、いっそうビジネスに熱中して いきました。一社集中、本社集中の営業を続けると今回のように大口取引 停止で倒産のリスクを負うことから、広くお客様を集めていきました。 さらに一社集中の時には、単価競争もなく、安易な会社経営に甘んじてい ました。こんどはヒデミツは仕入れ原価を下げたり低価格の料金設定など、 他社との激烈な単価競争に入っていきました。 今回の金融機関A社の取引停止の責任はヒデミツ自らが起こしたものです。 社長1人の判断で、社員は痛手を負ったわけですから、全責任はヒデミツ にあります。 社員をリストラしてスリムな会社経営を余儀なくされているのですから、 社員自らの責任の取り方として、1年間ヒデミツ夫婦の給料をゼロにしま した。ヒデミツの給料をゼロにしても、会社が成り立たなければリストラ は仕方のないことと社員を説得しました。こうして少ない経費でいままで の3倍、4倍の働きで売上を増やしていったのです。

【逆境で学んだもの】
  夫婦そろった給料ゼロは考えてもいない暮らしが待ち受けていました。住 民税は前年度の収入により算定されますから完納することは大変でした。 家の冷蔵庫を小さくしました。家や会社では電気を小まめに消しました。 ペットボトルにお茶を入れて持ち歩きました。 土、日も休みなく働きました。夜も働くことを考えて、求人誌を出稿者 から求人者の立場で読みました。2人が無給で24時間働いたことから 情報通信ネットワークの営業経費ゼロから利益を生む結果を出すことが できたのです。 いままでは、がむしゃらにヒデミツは社員をひっぱってきました。自ら の思いを一方的に社員にぶつけていました。しかし、経営者と社員の意 識は違います。自分の成長よりも会社の成長が早いと、20代の社長は 追放されてしまった知り合いベンチャー企業も教訓になりました。会社 経営は決して楽ではありません。自分の給料はゼロ、社員には従来以上 に給料、ボーナス支給をしていたのですから健全な会社経営ではありま せん。 会社が厳しければ社員にも多くの課題を与え、ヒデミツが先頭を走って いたのでは、とても社員の気持ちも理解する余裕がなかったのです。