日本初への挑戦!情報通信ネットワークは
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ヒデミツの恩人

情報通信ネットワークの佐野秀光社長が、頑張ってきたエネルギーはたくさんの出会いです。同級生の井上さんに高校、大学時代のヒデミツの素顔を聞く連載企画の第1弾。

第1回 とにかく目立つ高校生 荒唐無稽なヒデミツ

 私が日大付属習志野高校1年9組の時、斜めうしろの席が佐野秀光くんでした。ほとんどの生徒は千葉県内からの通学でしたから、大田区出身の都内から通う彼は「なんでこんな所にきたのか」というのが第1印象です。東京のはずれから通学する変わった生徒でしたが、日常でも変わった人でした。遅刻は当たり前、ある時は髪型はリーゼントで決め、ある時は血だらけ頭はボサボサ。とにかく落差が激しいのです。伊達メガネでみんなを驚かすなど明るいキャラクターは、みんなの人気者でした。目立っていましたが、不良とか暴走族ではなく単なる変人でした。自転車で高校から船橋まで10キロを超える道を2人乗りで帰ったり、"青春時代"は荒唐無稽な佐野くんというのが、私が想い出すヒデミツくんなんです.........(続きは次号)。

同級生 井上満さん(A型しし座)談

※おことわり......できるだけナマの声取材のため、役職上仮名での登場の方もいらっしゃることをご了承下さい。

第2回 常識はずれの行動 逃げないヒデミツ

 高校2年生になると文系、理系に分かれ、文系の佐野くんとはクラスが違いましたが友人関係はますます深まっていきました。女子高生4人組との合コンをセットしてくれたのも佐野くんです。当時付き合っていた彼女の友人3人を集め、私たちが参加した合コンです。しかし、彼の行動は常識はずれ。やってきた彼女の友人3人に次々と声をかけナンパしていったのです。「ボクとの関係はナイショ」と口止めするんですが、バレてしましました。
「なんでみんなに手を出すの」仲良し4人組の女の子の怒りは頂点に達し、みんなから釈明を求められることに。この時、佐野くんは逃げないで堂々と女の子の前に立ち、罵声を受ける勇気には感動しました。高校生らしくないオトコ気を感じたからなんです。

第3回 頭を丸坊主で猛勉強 高校生らしくない発想

 佐野くんは高校生3年生になった時、突然頭を丸坊主にしてしまいました。いままで勉強もしないでディスコ遊びに夢中になっていたので、附属高でありながら附属大学にも入ることのできない成績を知り、猛勉強する決意を表したのです。
同級生の中には丸刈りなどいません。まさに学校中の話題の人。日大附属の全国統一テスト対策のため、メリハリのある勉強方法です。頭を丸めて勉強しようなどいう発想には「何事か」とみんなが驚いたのです。

女の子から呼び出されても逃げないヒデミツ。丸坊主のヒデミツ。「こいつは、ものすごく成功するか、失敗するか」と思った佐野くんの高校生の印象です。普通の人間ではなく、変人だったことは間違いありません。.........(続きは次号)。

同級生 井上満さん(A型しし座)談

第4回 焼きそばとビール1本 最初の事業はサークル風

 佐野くんは日大経済学部に、私は日大理工学部に入学しました。学部が違うため離れ離れになってしまいましたが、友人関係はより密になっていきました。

 日統一ゼミナールという日大附属生のための家庭教師派遣業を、大学1年の時、佐野くんはスタートさせました。私が従業員です。5帖のアパートの一部屋を事務所にして、毎日のように行動を共にしていました。事業を起こしてもお金がないので、毎晩カップ麺のやきそばにビール1本の暮らし。バス代節約のため自転車で移動。事務所の机の下にもぐって寝たこともありました。私は生活費を稼ぐため、土日は別のアルバイトをしていましたので、従業員なんかじゃあなく、サークルの一員なんです。「どうしたらお金になる」「こんな事業は成長する」「何でも取り組もう」毎晩夢を語り合っていたヒデミツと私です。

同級生 井上満さん(A型しし座)談

第5回 1からスタートすること 夢を語るヒデミツはいきいき

 ビジネスを語る佐野くんの表情はいきいきしています。普通の人間ならば、サラリーマンになった方がラクなんですが、彼は「1からスタートすること」「新しい仕事を構築すること」「みんながやらないこと」を考えるのが大好きでした。ある面では思い込みが激しい面、がんこな面もありましたが、このしつこさが今日の姿を生み出したのではないでしょうか。

 大学卒業後は、佐野くんは情報通信ネットワークを発展させることに心血を注ぐことになり、私はサラリーマンの道を選択しました。彼は実業家として、学生時代の夢を追い続けることはとてもすばらしいと思います。会うたびに、いろんなビジネスアイデアを聞くことは楽しみです。このエネルギーは自分にない一面だけに、あこがれてしまうヒデミツの発想なんです。

同級生 井上満さん(A型しし座)談

第6回 日本初の事業を次々と、ヒデミツの発想に期待

 謄本取得作業を始めることを聞いた時、私は全国のネットワークをどうやって構築していくのか心配でした。しかし、佐野くんは「お客様のためになる仕事」という志を大切に新しい事業を展開していったことは、私には考えられない視点です。事業の意義が明確であり、お客様のニーズに応えたビジネスがみんなの支持を受けたのだと思います。

 「日本初」どんな事業でも自らがパイオニアとして頑張るという学生時代の夢が、ひとつ実現できたのです。佐野くんの発想でいまでは「謄本取得代行」が当たり前のようになってきました。IT時代が進む中で、果たすべき情報通信ネットワークの役割はさらに大きくなるのではないでしょうか。ヒデミツの新しい発想、新しい視点からもっともっとビジネスアイデアが生まれることを期待しています。

同級生 井上満さん(A型しし座)談

第7回 これはモノになる

 情報通信ネットワークは1994年5月から登記簿謄本の取得代行業をスタートさせました。私は前年まで車販売会社の営業マンをしておりましたが、ヒデミツの新たな事業展開に賛同、社員第一号となって働くことになりました。中学校からの同級生、同じ学習塾、さらに大学時代のヒデミツは母の経営するクラブでボーイのアルバイトをするなど家族ぐるみのお付き合いがありました。

 今までのヒデミツは「こんな商売は儲かる」「ビジネスチャンスだ」「水に塩を混ぜたバッテリー」など、会うたびに様々な商売を語っていた「商人」でした。子供の頃から「変人」でしたので、大人になってからは「変人」から「商人」になっただけですが、とにかく普通の友人とはまるっきり違うヒデミツでした。

 公簿取得代行業のビジネス構築を打ち明けられた時、私も車販売会社ではお客様の謄本取得の仕事をしたこともあり「これはモノになる」と直感、ヒデミツと一緒に仕事をする決心をしたのです。

創業時社員第一号 小松 忠さん(AB型さそり座)談

(現 ドコモエンジニアリング ネットワークサービス事業部 技術協力担当)

第8回 必ず成功する

 当時は、JR蒲田駅西口近くの古いビルの3階に情報通信ネットワークがあり、ヒデミツと私の2人だけのスタートです。「景気が良くても謄本は必要」ですから「これはいける」とヒデミツの発想を信じたので、毎日、司法書士さんや行政書士さんに電話をかけたり、法務局周辺を歩いて「提携」をお願いしていました。夕方からは発注書を手書きで書く仕事が待っていて、帰りは午前2時頃という勤務の連続でした。

 私は「必ず成功する」と強く感じていました。だからこそ、初めてのビジネスでいろんな事に直面しましたが、真っ白なキャンパスに筆を走らせるような楽しさしか頭の中にはありません。常に前向き指向で仕事に取り組みました。

「司法書士さんに断られた」

「公簿取得代行などとんでもない」

などと、辛い事があってもヒデミツと一緒に困難に立ち向かっていくことは、新鮮さを感じ、逆にやる気が沸いてくる毎日に変わっていったのです。

創業時社員第一号 小松 忠さん(AB型さそり座)談

(現 ドコモエンジニアリング ネットワークサービス事業部 技術協力担当)

第9回 手づくりの会社が魅力

 手書きの発注、提携する司法書士さんを手探りで求めていくことは大変な作業でした。どんなにがんばっても1日100件をこなすのは至難のワザです。ヒデミツは主に外回りの営業、私は内部の事務体制の確立を図る役目でした。

社員も1人、2人と増えてきましたので社員管理も任されてしまいました。当時は古いビルの3階に情報通信ネットワークがあり、社員応募者は暗い階段を上がっていくので、かなりの勇気が必要だったと思います。新しいビジネスモデルの会社なのに、事務所は自社ビルと言っても、とても最新ベンチャー企業とはほど遠いイメージだったのです。だからこそ、入社を決意した人達は見た目よりも中身で一生懸命、脇目もふらずに頑張ってくれたのです。

新しいビジネスですからマニュアルがあるわけでもなく、何から何まで社長のヒデミツと私がこなさなければならない手作りの会社でした。全てが目に見える全ての仕事がわかることが私をやる気にさせたのだと思います。

創業時社員第一号 小松 忠さん(AB型さそり座)談

(現 ドコモエンジニアリング ネットワークサービス事業部 技術協力担当)

第10回 特異な病気が判明した小学生のヒデミツ

 小学校5年生の夏、ヒデミツは次の授業が待ち遠しいほど「水が欲しい」、階段を上り下りするにも「体がだるい」といった症状を両親に訴えました。この訴えに驚いた両親は、すぐに近くの東邦医大病院にかけこみました。この時、下された診断は「即入院」という信じられない結果でした。病名は「インシュリン依存性糖尿病」です。体の中からインシュリンを生み出す機能がまったく働かない、日本では10万人に8人という特異なものです。入院は5ヶ月間にも及び、高学年になったヒデミツは大ピンチ。そして入院中だけでなく、これから毎日一生涯にわたり注射を打たなければならないことは、5年生の子供にとっては大ショックです。両親の驚きはもちろんのこと、人生が終わってしまうくらいの暗い空気が佐野家を襲ったのです。けれどもヒデミツは、自ら教科書を開き、自ら勉強する時間を作りだし前向きでした。この明るい姿勢が自らを救うことになるとは、当時のヒデミツは知る由もなかったのですが、その時......。